昭和47年02月13日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「この方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。この方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人はこの方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬようよく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うに及ばぬ。金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやる。」

 神様からも氏子からも両方からの恩人はこの方金光大神。そこで、私共の大恩人である所の生神金光大神で、私共が本当に大恩人であると思える程しのおかげを受けなければいけません。本当に金光様の信心の頂いておったと云う事は、此の様な大変なおかげを受ける事になった。 此の様な助かりを頂く事になったと言えた時に言える程しのお陰を受けた時に初めて金光大神は私共の大恩人と言う事にになる。
 だから「神から」と仰る所は、私共にはあまりに関係がない、とこう神様が仰っておられる。けども「氏子からも」と仰る所の私どもは分からせてもらう。ですからその為には、神様、金光大神が私共の大恩人であるとして、お礼が申し上げれる程しのやはりおかげを頂かなければ、大恩人じゃない、恩人じゃない事になる。ただ縁を頂いておると云うだけである。「まさかの時には、天地金乃神と言うに及ばず。
 金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやる」と言われる程しですから、もうここは金光大神と天地金乃神とは一体、一つであります。ですから金光大神の言われる事は即天地金乃神様の言われる事だと云う事になる。ですから、金光大神の言われる事を聞かせて頂けば、それは天地の親神様の言われる事を聞いた事になる。金光大神の頼みを私共が受けさせて頂いたら、天地の親神様の願いを聞き届けさせて頂く事になる。
 そこで段々お道の信心が分からせて頂くと、私どもの願いが成就すると云う事の前に、天地の親神様の願いが成就すると、そこに初めて神も助かり氏子も立ち行くという、あいよかけよの働き合いと云う物が生まれて、その働き合いの中に、私どもが幸福を頂く事が出来ると思う。そこで果たして、私共がです、まあここで金光大神の言う事に背かぬ様と云う事は、まあ金光大神が教えを説いて下さるその教えを守ると云う事と同時に、金光大神が天地金乃神様の心をお話にして下さる。
 天地の親神様の心を解からしてもらう。とまあ氏子に対する私は願いが何時も中心である、ね。氏子に対する願い、氏子に対する頼みである。これは信心が段々と分かって来るに従たがって、それの感は強うなって来る。感と云うのはいわゆる感じですね、感じが強ようなって来る。初めの間はただ頼むとか願うとかいうだけの信心から、云うなら頼まれる信心に変わって来る。
 金光大神から、天地金乃神様の心が、金光大神を通して、いわゆる神の頼みと云う事になって来る。何と言うても、だからまず、私が助からなければいけない。今朝方から私はお夢を頂いた。どういう具合に、今日の御理解に継がるだろうかと、私は思わせて頂いておる。分からなかったんですけど、ここで教典を開かせて頂いて、今ただ今私が申しました様に、継がるのだなあと気付かせて頂いた。金光大神の御取次によって、私どもが本当に助からねばならん。
 私共がおかげを受けなければ金光大神大恩人と云う事にならない、神様から恩人であっても私共では。その証拠には信心の薄いもの、信心のない者は金光大神を恩人とは誰も思ってはおられません。信心の薄い人は金光大神が助けてやらっしゃるならば、「何々様もござる」と云う事でさえ成って来る「金光大神も大した事はない」と云うて止める人もある。ですから本当に金光大神のおかげで、私共は助からなければいけない。
 本当に金光大神がこの世にいなさらなかったら、今日の例えば私で言うならば、今日の合楽はなかったろう。大坪一家も助からなかったろう。初めて金光大神が恩人と云う事になって来る。助からなければいけん。その為に金光大神の言う事に背かぬ様にという。今日はそこの所を教えて下さる事、それを守るという風に申しましたが、金光大神の言われる事の中には、教えられるだけでなくて、頼みがある。言われる事の中に、いわゆる神頼み。今日は十三日ですから、十三日会が開かれます。
 せめてこの十三日会という日を、神様の願いが成就する日として、ただ成就するのじゃない。私どもが神の頼みと聞かせて頂くという姿勢を取ろう。月の中にこの十三日だけは神の願いを聞かせてもらおう。神の願いが成就する事の為に今日一日はおかげを頂こうと云うて午前中教会の様々な御用をなさっておる。それから、一時からあの様に信心の共励があるわけです。一番合楽では様々な共励が信心層によってあっております。
 ほとんど塗板がそれでしまえるくらいに様々な、いわゆるそれ信心共励機会があるんですけれども。その中でも十三日会と云う物が合楽で一番の共励日として大事にされるのも、そう云う神の願い、金光大神の願いと云う物を聞かせて頂こうという言わば稽古なんです。神の願いが成就する事の為に奉仕するというのであります。今朝から私が頂いた夢というのは、ご飯を頂いた。
 私どもはお腹一杯頂いたけれども、子供にやるご飯が少し足りな様な感じ、だから小さい是位のお湯呑み茶碗のこの低い御茶のみ茶碗を持ってから、「隣からもろうてこい、まあ隣から借りてこい」と言うので行きながら私自身が隣に行って、ご飯を借りに行った所が、隣が秋永先生のところである。それが丁度秋永先生の所も、丁度お食事中である。だからあのーこの、「お茶わん一杯くれ」と言うてこう、お茶わん差し出した所が。秋永先生のそこは、ご飯がないらしく、うどんを食べておられる。
 しかもそのうどんもプツプツ切れとる。それで切れた小さい短いうどん。それを自分の茶わんの中から、私が持って行った小さい茶わんに一杯やろうと言うのに「いえこの位でよか。この位でよか」と言うてから、八分目くらいで「子供だからご飯よりも却ってうどんの方が良かろう」と言うて頂いて帰ったというお夢であった。次には今度場面が変わって、今度は文男さんと二人で、町を散歩しとるといった感じ。
 本屋に入った、沢山の色んな本があって、ああこの本は良い本だなあ、この本を買うと良いなと、色んな良い本がいくらもあるけれども、その中に小さい薄いパンフレットのこの様な小さい薄い本がある。それをまあ「これ読みたいから文男さん一つ買おうか」と言うて、私はその本を取りましたから、文男さんが百円かそのくらいのお金、安い金額それを払った。と言う所で眼が覚めた。実を言うたら、私は千円も二千円も大きな本の読みたいのが色々あったけど、まあ私が遠慮しとる訳です。
 私が買うと言えばこの人が必ず金を出すから、だから厚いのを買わずに薄い百円くらいの。「文男さんこれを買おうか」と言うておる事である。そして今日の御理解を頂かしてもろうてです、そして本当にいよいよ金光大神と天地金乃神との間柄が一体でおありになるように、まあ言うなれば、此処で私と皆さんが同じ一体にならせて頂かねばならないと云う事を、この御理解4節を頂いて痛感しとるわけであります。大坪総一郎の願いが、言うなら金光大神の願い、金光大神の願いはそのまま天地金乃神の願い。
 私の願いは、皆さんにどうぞおかげを頂いて欲しいと云う事。ならおかげを頂いて欲しいというと同時に、なら私は私の皆さんに頼みがある。ただ皆さんおかげを受けて下さいと言うだけではなくて、頼みがある。「ちょいとすまんけど、ちょいと持ってきて」と例えば物一つ持ってきてもらうにも、「済みませんがちょっと持ってきて下さい」と言わねばならない人、「それを持ってきて」と言われる人。
 今朝からその事を頂いて、私は本当にこれだけ沢山の信者がおられます中に、私が何人、私が「足りないから少しくれ」と言うて行けれる人があるだろうか。私が欲しい物を本当に欲しいと、「あれを一つ買うてくれ」と言えれる人が幾人あるだろうか。それは皆さんが言われます。「先生必要な事がある時は、何でも言うて下さい。」と。けど私の心が許さん。例えば、久富正義さんが、あの自動車を一番初めに買われた時、「御用がある時は何時でも言うて下さい。何時でも御用に使うて下さい」。
 私は一ぺんも「ちょいと私は何処へ行くけんあんた方の車を貸してくれんの」とまだ言うた事もない。正義さんに言うた。「私が頼んで車を貸してくれとは言わんよ」と。私は、「今日はあんた方の車を一日貸してくれ」と言える人が、私が言うならば、何の遠慮も気兼ねもなしに言えれる人が何人おるだろうか。例えよし言われても、まだそれは自分が食べておるものからあげなければならない程度くらいしかおかげを受けていないと云う事。秋永先生の所に少しご飯を貰いに行った。
 所が、私はご飯を頂きましたけれども、秋永先生の所はうどんであった。しかもこちらのうどんの中から、そのうどんをこうやって、「さあどうぞ」と言うてくれるのでなくて、ご飯を食べてる茶わんの中から、だから私がくれと言うと、結局自分だけはひもじい思いを少しせんならんと。それですらなら、私が秋永先生以外の誰の所に私が貰いに行ける信者が一人だっておるか、言うなら仲の事、私と皆さんの仲の事。
 なら気兼ねなしに言えれる。文男さんなら文男さんでも、私がやっぱり遠慮しとる、まだ千円も二千円も厚い本が買いたいと思ようるけれども、まだ遠慮しとる。そして一番安い百円くらいの本を「文男さんこれ買おうか」と「はい」と言うて文男さんがお金を出した。本当に私が買いたい千円なら千円、二千円なら二千円の本を「文男さんこれを買うよ」と言えれるまだ仲じゃないと云う事。
 例えばこの頃から、高橋さんの車で久留米にやらせて頂いた話しを此の頃話をさせて頂きましたが、全部会計を高橋さんがして下さった。随分お金が要った事だろう。そして帰って、「あちらにお返しせんならんぞ。いくらか尋ねて繁雄さん払って下さい」と言わにゃならぬ。私と高橋さんとの仲はそのくらいの仲、実は。「いえあれは私がおかげ頂きます」一銭も取られはしませんでしたけれども。私がね、例えば一緒に回って、高橋さんに沢山のお金を使わしたから。
 やはり気の毒だと思いが有るからこそ、翌日お払いする様に家内に、「お前が持って行ったお金で払って下さい」と。「これじゃ足らんですよ」と言うなら、「繁雄さんに言うて、繁雄さんに払ってもらえ」。私のお金は高橋さんの物、高橋さんの金は私の物、そういう状態の所まで、その仲と云う物が育っていないと云う事。頼まれないでしょうだから。だから事実は、高橋さんが「いえあれは私がおかげ頂きます。」
 とおかげ頂く様になっとりますけども、私の心なんです問題は、私の心がです、何の気兼ねも遠慮もなしに、高橋さんの懐中は私の懐中と思える仲というものがなからなければ、頼み頼まれると言う事にならないのです、本当な意味においては。それをです、なら私が今、合楽で頼めると言うならば、まだ文男さんも私が遠慮しとる。なら秋永先生一人と云う事になるのじゃないでしょうか。所が肝心要の秋永先生は言われても、まだ自分の食べる物の中からあげんならんと云う様な程度の助かりであると云う事。
 私がどんな大きな茶碗を持って行っても、「さあどうぞ」と言うてこちらの方からそれを掬ってやれる様なまだ助かりを受けてないと云う事。はあこれはまだいよいよ合楽がね、どんなに素晴らしい信心焦点というかね、和賀心時代を創ると、そのためには本当に宗教革命、まあこれは激しい言葉ですけどもね、ちょっと過激ですけども、一番適切ですから、そう言うならです。
 本当に「宗教革命」を目指さなければならない程しの為には、大変な力が要る。「和賀心時代を創る」と言うても、まず私の心から、私の家庭から、言わばここにご縁を頂いている、皆んな一人一人がです、その和賀心時代に突入して、そして和賀心時代を作る事の一人一人が、その運動員にならして頂く程しの迫力と云う物をです、創って貰わなければならないと云う事なのですけれども。
 ならその実の所を言うと、只今、今朝から私がお夢を頂いてどう云う事か意味が分からなかったけれど、その御理解四節を頂きながらそういう風に感じる。どうぞお願いしますと言うても、お願いの出来る人が何人あるか。だから私が「済みませんばってん願いします」と言う人は沢山ある。私がもう一つ「済みませんがお願いします」と言うなら、けど「済みません」と言うてから頼もうごとない。また頼んじゃならんと思う。正義さんが「どうぞ車をお使い下さい」と言うても「私は頼んでから頼みに来んよ。」
 と言うのと同じ事。私と正義さんの仲に「ちょっとどこに行くけん、あんたいくら持って来といて」と言える仲と云う物がまだ生じていないと云う事。生まれていないと云う事。皆さんが如何にですはあ親先生があれがお好きだからと云うて、なら頼まんでもして下さると云うのはそれは云う事かと云うとそれは皆さんの願いなのです。言うならばおかげを頂かんならんから、そげんしよんなさるとです。いくらそれが真心であっても、それは皆さんがおかげを受けなければならんからそうなさっておるのです。
 本当に痒い所に手が届く様な、私が痒い時には「そこじゃなか、ここ」と言えれる人というのは、まあ此処で申し上げては本当に済みませんけれども、繁雄さんの事を申しますとね、是だけは頼める人なのです。言わば毎日足を揉んで下さる。お茶をして下さる殆ど午前中かかられる。是は私が頼み頼まれる仲である事ではあるけれども頼む。所が最近私がもうイライラモヤモヤする事と云う事は、私が足を握らっしゃったらもう目が瞑れると云う事。もう此処一月あまり毎日毎日はがいい思いをする事です。
 初めの間はじっとしてもう良かたいと思うてから、こうしとるばってんからもうこの頃のごとあればもう本当に足が痛い。自分では気が付いてないと思う。自分でもし、もししよんなさるけん、揉みよると思うとんなさる。そして一時間も二時間もやっぱり頑張っちゃる。けども揉んでもらっとる私は一つも揉んでもらってない。時々ムジムジ、コロコロ、時々ほんな足つかんで、ハッちゅう間に倒れよんなさる様な感じなのです。
 折角頼み頼まれる仲が生れながらです、それが本当にそれだけの御用が出来てないと云う事は、私も残念、繁雄さんも残念。そらそうだろうと思うんです。それは本当に眠うあんなさろうと思うばってんこの頃はもう足を、是は何時も髭を当たって貰う時に、茂さんが何時も。つと足を繁雄さんが足を揉みよんなさる、顔は茂さんがあたってくれよる。だから何時も繁雄さん、だからあれは眠っとたっちゃ分からんですもんね、自分な。自分はやっぱり揉みよる積りじゃ。
 何時か御結界で上野先生が眠っとるけん、ある人がその眠っとる姿を俳句に書いた、女の先生が弟と御結界で眠って御座ると云うのを俳句に作った。其れを発表した。そしたら上野先生がカンカンに怒ってから、「私だん御結界で眠った事はなか」ちゅうて腹かいて、けど眠っとらんと思っているけど、眠っているのです事実。それは分からんです、自分では眠っとらん積りじゃから。
 なら、繁雄さんの場合でも、「あんた眠っとる」と言うたっちゃ、「いいえ眠っとらん」と言いなさるに違いないけれども、実は眠ってあると云う事。だから傍におる茂さんじゃなからにゃ分からん。それがならどうしてそう云う事になって来るかと云うと。頼み頼まれる仲がようやく生まれたのにです、言わばマンネリになるからなんですよ。いわゆる慣れっこになるからですよ。
 頼み頼まれる仲、私が本当に頼める、言うなら秋永先生まあだけだと。まだ文男さんにしても、まだ私が遠慮しとる。いっちょ普通では遠慮なかごとあるけど、実際は遠慮しとる。 二千円の本が読みたいけれども、それはちった此の人にも無理が行こう、高過ぎろうとこう思う。で百円くらいの薄い本を買うて。秋永先生の所にご飯貰いに行きゃ、自分の食べよるご飯の中から貰らわにゃん。是では私も気の毒、自分もあげただけは腹一杯にならん。言うならひもじい思いをせなけりゃならない。
 ならそこに頼み頼まれる仲があっても、それが慣れっこになるともう居眠りが付くと云う事。信心は成程こういう風に頂いて参りますと、信心な難しかと云う事になります。そこで、何時も絶えず自分の心の中にでに新たな心と云う物を求めさせて頂くと同時に、本気でお役に立ちたい立ちたいの一念、本当に神様から頼まれよい私、言うならば使われ良い私を目指さなければならない。
 どんなに皆が、真心を込めて、例えば沢山お供えしても、それは皆さんがおかげを頂く為にしておるだけの事。こちらが頼んでからの事ではない。頼まれる仲にならなければいけない。頼み頼まれる仲、其処から、本当のおかげが受けられた時に、初めて親先生のおかげでと云う事になり、金光大神のおかげ、金光大神を恩人として頂く事が出来る様なおかげになって来る。
 昨日は美登里会で御座いました。もう本当に時間の経つのも、所が、私のちょっと思います事は、初めの間は皆眠たそーな感じなのですよね。それけんちゅうて、私が司会させてもろうて、一人一人に話を聞くと、一人一人それは私は昨日申しましたが、期せずしてですね、期せずして自分の心の状態と云うのは、此の様におかげ頂けておる。此の様に心の状態が高められたお話ばっかりでした。それが嘘じゃない、本当に素晴らしい素晴らしいと思うた。物の見方一つでも。
 もし是が以前の私だったらどうでしょうか、と云う様なお話であった。それは素晴らしいね、本当に今日最後の締括りにです、もうその一人一人の内容の素晴らしいのに、本当にそれこそ合楽ならではと云う物を感じました。そこでです、そういう素晴らしい心の助かりと云う物を頂いておられるのであるからです、そういう心でです、例えば言うなら神の願いを聞けれる生き生きとしたものを作って頂きたい。
 言うなら此処で御造営なら御造営と云う事が、その事の為にそういう素晴らしい心の助かりを頂いておられるその心の状態でその事を願って行けれる。願っておられます皆けどもっと生き生きとした躍動した様な、私は願いを立てて貰いたい。それをなら前半の所で私が感じた事です総じて。皆が何かこう皆んなが眠気眠うあんなさぁるちゅう様な、皆んな目を瞑って皆んな下うつむいて御座ると言った様な感じなんです。 お茶飲んだり、お菓子を食べたりしよんなさる時だけはにこにこしとんなさるが。
 食べ終わるとちゃんとこうしてお話のしようがなか感じなんです。それかと言うて「誰々さんお話ししなさい」と言うと、自分の心の中に頂いてあるおかげと云う物を話されて、それは素晴らしい。だからその素晴らしい心の状態が、もちっと燃えて来なければならないと言う事。そういう素晴らしい心の状態を燃えて来てです、お役に立ちたい立ちたいの一念がね、もちっと、それこそ和賀心時代を創る事の為の運動員にでもならして下さい言う様な願いで、ただ自分が本当に。
 以前の自分ならどうだろうか、それを今こういう有難い心で受けられると云う、其処迄しか頂いていない。そう言う心が燃え立って来ている。そして今日金光大神の頼みを聞けれる、天地金乃神様の願いが聞かれる。親先生の願いが気兼ねなしに、親先生に頼んでもらえれる仲と云う物を作って行かなければならないと私は思う。その為に、なら私が頼めれるのは秋永先生、例えばお夢の中に現われて来る所のそれは、まあ云うなら気兼ねなしに「御飯くれんの」と言うて貰いに行けるのは、秋永先生だけなんだけれど。
 秋永先生の自身の助かりがです、まーだそれを少しだけで、自分がひもじい思いをせんならんと云う様な。の助かりであると云う事、だからいよいよ助かってもらわねばならん。いよいよ助かって時に初めて金光大神を恩人としての。「神からも氏子からも」と仰る、恩人としての頂き方、その恩人のご恩に報いる生活、それが本当の信心生活。それを神恩報謝の生活という。いかにも神恩報謝の生活をしておる様であっても、まあだ頼まんならんから、御用させてもろうたりお供えさせてもらっておる。
 お参りしていると言った様な、言わば信心ばかりではなかろうかと私は思う。親先生が、言うなら気兼ねなしに、遠慮なしにです、「ちょっと其処にあるとを此処さへ持って来て」と言えれる仲と云う物を、もっともっと作って行かねばならない。まあ出来た暁においてもです、それが今度はまたマンネリになってはならないと云う事を、繁雄さんと私の事を聞いて貰いました。私と文男さんの事で聞いて頂いた。だから自分一人一人の内容と云う物を持って、本当にお陰を頂いて、心が助かっておいでられておる。
 それだけではなしに、そういう心が本当に燃えて来て、それこそ目が輝くというか。そういうその輝いた物がない、そういう助かりを以て、金光大神の願いが、神の願いが聞けれれる。いやそれを聞かせて頂きたいという念願、そこん所を私と高橋さんの事で聞いて頂いた。私と高橋さん、もう本当に頼み頼まれる中の様にあるけれども、事実はまだまだと言う事である、答えはです同じ答えが出ておる。「いえ私がおかげ頂きます」と云う事になっておるけれどもです。
 私があくる日、「高橋さん、あれは幾ら掛かったじゃろうか、繁雄さんからもらっといて下さい」と言わんで済む、私と高橋さんに育ちたい。そこに私は神の願いと云う物は、お互い一人一人の上にかけられておるんだと。そう云う事になるとどう云う事になるのでしょう、私の懐中と、高橋さんの懐中も同じであるね、昔から言われております、「親の物は子の物、子の物は親の物」どうでしょう。親の物は子の物と言う様な事に成って来たら、大変な事ですよね。
 いわゆる氏子の一握りは是だけだけれども、神の一握りはどれだけあるか分からんという、そういう世界に突入して行く事が出来ると言う事なんですからね事実は、まだ懐中の物を別々にしとかんならん様な、私と皆さんの仲と言った様な事。いや財布は一つであっても、まだ中には充分の金が入ってないと言うのが。私と皆さんの状態と云う事になるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。